「不愉快の峠」仮説
マイノリティとマジョリティの間には、不愉快の峠があるのではないかと思う。
マイノリティ文化がマジョリティ文化に認知される過程を考えると、情報の少ない接触初期段階では、どうしても表現が歪み、不正確になってしまう。理解の深い人間の目には、この不正確で偏見混じりの描写はいかにも不愉快なものに映る。偏見をなくせ、正しく理解しろと憤る。
しかし、マイノリティ文化を最初から正確に描写することはできない。マイノリティ文化は異文化で、まず、正確に表現するための語彙さえ、マジョリティ文化には存在していない。マジョリティ文化の人間にマイノリティのことを正確に説明しようとすればするだけ、迂遠な表現で浅薄な解釈を回避することになるし、正確だが無味な描写は、結局はマジョリティ文化においては無視されることになる。偏見を許さない態度を強めれば強めるだけ、マイノリティ文化への理解が進展しなくなってしまう。そうであるとすれば、マイノリティがマジョリティに認知され、受容されるためには、少なくとも当分は、不愉快を飲んで相手の好奇心を刺激する描写に甘んじるしかないのではないか。
このような法則が、マイノリティの種別を問わず、普遍的にあるのではなかろうか。これは仮説でしかないのだけれども、明らかに不条理な仮説だ、と思う。マイノリティが無視される社会と、マイノリティが偏見にさらされる社会は、どちらも苦しい。マジョリティからの能動的な攻撃に晒されないだけ、無視されていた方がマシだ、という考えもあるだろう。しかし、無視されている状態からは、理解は進むはずがない。異文化間の不和を解消するには、不愉快の峠を乗り越え、その先へ進むしかないはずだ。
では、偏見を受け入れるべきなのか。部分的にはそうだ。しかし、極力無害な偏見を選ぶことは、できるかもしれない。致命的でない、許容できる不愉快さの偏見の峠を見つければ、不愉快さを耐えた先で、より深い相互理解を得られた未来に至ることができるかもしれない。