哲学無用論と哲学の価値

哲学は役に立たないのではないか、という批判はソクラテスのむかしからあるようだ。(理想国のあり方と哲学の役割──『国家』第5-7巻)そういう哲学無用論に反論する方法のひとつに、哲学の有用性を具体的に説くというものがある。

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でも、哲学が役に立った例を具体的にいくら挙げたところで、“本質的に”哲学の有用性が示されたことにはならない。どれも、特定の哲学の考えが有用であったというだけで、相変わらず、何の役に立つのか分からない哲学もある。すべての哲学に、その用途をあてがうのは不可能だろう。

有用な諸科学も、源流を辿れば哲学に由来しているのだから、今の哲学もいずれ有用となるはずだとも考えられる。ソクラテス「星を見つめる男」の比喩にしたって、天文学という一見無用に見える学問が航海術に役立つということに喩えている。アインシュタイン一般相対性理論全地球測位システムGPS)の構築に不可欠なのだから、理論物理学は有用であるという話と変わらない。しかし、このような考え方は、楽観的だ。

哲学も役に立っているという論で救われるのは役に立つことが明らかになっている哲学だけだし、将来役に立つという説明では、悲観的なひとを納得させられないだろう。哲学を、有用性の観点から価値付けようとする試みは、そもそも無理があると思う。ある種の哲学は実際に無用で、その前提は覆らない。

それでも、哲学には価値がある。その価値とは、希哲学 philosophy という名が示している通りの価値だ。哲学に価値をもたらしているのは、知ることへの強烈な欲求だ。人間は、食欲や睡眠欲と並んで、知ることに対して抗いがたい欲求を持っている。食事は諸活動に必要だが、同時に食事自体が楽しみだ。食事に興味を持たず、完全に単なる手段とみなし、実用性・合理性を追求する人間は、極少数派だろう。(もしいるとしたら、そいつはたぶん哲学者だ。食事する哲学者の問題 - Wikipediaそれかサンドウィッチ伯爵か。結局、どの欲求が一番強いのか、という話だ。)

肉を食らうことも本を食らうことも等しく人間的で、健康に関係し、価値のあることだけれども、役にも立たない本を食らうことに何よりも強い満足感を感じる人間というのは、やはり少数派なのだろう。

「哲学は役に立つの?」「まあ、世の中には哲学を食らう人間もいるのだ。」