ウイルス感染シミュレーターを作ったので、オーバーシュートを完全に理解した

新型コロナウイルスの問題で、専門家が使う「オーバーシュート」という言葉の意味が問題になっていた。

togetter.com

興味を持ったので、自分でも感染症数理モデルを作り(グラフは参考にしたが、計算するための具体的な数式は見ていない。集団免疫率の定義を見たぐらいだ。)、シミュレーションを行ってみたところ、同様のグラフを得ることができた。ここに、簡単に説明をしておこうと思う。

留意点として、私は疫学の専門家ではないので、以下で使われている用語は疫学で使っているものと異なっているかもしれない。

docs.google.com

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再生産数=2のときのシミュレーション

再生産数は感染者1人がウイルスを伝染させうる人数のこと。ウイルスの性質で決まる、本来的な再生産数を基本再生産数といい、コロナウイルスではだいたい2~3ぐらいであると考えられているらしい。

1度感染した人間は免疫を獲得するとすれば、ワクチンが開発されていない限り、延べ感染者数=免疫獲得者数となる。免疫を獲得した人間にはもうウイルスが感染しないことから、次のような漸化式を立てて、感染者数の変化を考えることができる。(直接、感染者数や延べ感染者数=免疫獲得者数を扱うのは面倒があるので、それぞれ人口で割って、感染者率・延べ感染者数率=免疫獲得者率とする。)

  感染者率' = 感染者率 \times 基本再生産数 \times (1 - 免疫獲得者率)

  免疫獲得者率' = 免疫獲得者率 + 感染者率'

この式を眺めれば分かるが、感染者率は基本再生産数 \times (1 - 免疫獲得者率)が1を超えていればどんどん増えるし、1を下回ればどんどん減っていく。その境界となる免疫獲得者率の値を、集団免疫率という。

基本再生産数 \times (1 - 集団免疫率) = 1

式変形すれば

集団免疫率 = 1 - \frac{1}{基本再生産数}

これらの式から、免疫獲得者率=延べ感染者率が集団免疫率を下回っている間は、感染者は増え続け、延べ感染者率が集団免疫率を上回ったところで、ようやく感染者数が減少に転じるということがわかる。(わからなければ、シミュレーション結果のグラフを見て確認してほしい。上掲のグラフは基本再生産数が2の場合のシミュレーションで、集団免疫率は50%だ。免疫獲得率が50%のところで、感染者数が減少に転じている。)何もしなければ、社会の人口のうち集団免疫率の分の人間がウイルスに感染するまで、ウイルスの勢力は強まり続けるという、避けがたい運命が示されている。ウイルスの封じ込めができなくなった以上、どんな政策を行おうと、いずれ延べ感染者数は、人口の50%~66%に至るのだ。たとえ、新型コロナウイルスの致死率が数%程度だったとしても、大量の人間が死ぬことになる。

もはや、延べ感染者数の人口比が集団免疫率に至ることが避けられないのであれば、私たちは速やかに集団免疫率を目指して、感染するようにすべきなのだろうか?いや、違う。何もしなければ、集団免疫率を大幅に超えて感染者が発生してしまうことになるのだ。

集団が集団免疫を獲得した時点、すなわち、延べ感染者率が集団免疫率に達し、感染者数が減少に転じた時点で、自然と流行に終息に向かうというのは正しい。しかし、流行が終息に向かうというのは、直ちに終息するわけではなく、感染者数が0になるまでは、あらたな感染者が出続ける。シミュレーションでは延べ感染者率は約87%に至っており、集団免疫率とは大きな差が生じている。これこそが、「オーバーシュート」と呼ぶべき現象だ。

しかし、オーバーシュートを回避する方法はある。実効再生産数(感染者が実際に感染を広げる人数)を下げれば良い。つまり、衛生管理を徹底する、外出を避ける等の施策によって、人為的に実効再生産数を下げることができれば、延べ感染者率はより低い値に収束し、その時点で感染者数がほぼ0になる。延べ感染者率が集団免疫率に至った時、感染者がほぼ0である状況であれば、ここから元の生活に戻り、実効再生産数が上昇したとしても、免疫獲得者の割合が多く実効再生産数は1を下回るのでウイルスの流行はもはや拡大しない。(延べ感染者率が集団免疫率を下回った状態ではいけない。延べ感染者率が集団免疫率より少ない状況で、実効再生産数が基本再生産数に戻れば延べ感染者率が集団免疫率より少ない状況では、実効再生産数が1以上に戻りうるので、そこからまた流行が拡大することになる。)

実効再生産数を下げれば、感染者数の最大値も下がる。医療のキャパシティが有限である以上、このことも施策上重要な要素ではあるのだが、感染者数が医療のキャパシティを超えることをオーバーシュートと呼ぶわけではない。オーバーシュートは、延べ感染者数の割合が集団免疫率を超えて増えすぎてしまうことを指すのだ。延べ感染者数×死亡率=総死者数なのだから、延べ感染者数を最小化することは非常に重要だ。

以上が、是非とも実効再生産数を下げる政策を積極的に行わなければならない理屈だ。しかし、このような理屈をまともに書いている記事はほとんどない。医療従事者さえ、この理屈を正しく理解できていないから、オーバーシュートを誤用しているのだろうと思う。これは問題だ。自分でシミュレーションをやってみれば、上の理屈は容易に理解できるはずだ。

ウイルス感染シミュレーターといっても、Google Sheetsで簡単な数式を並べてグラフを作成するだけの、やり方を知っていれば誰でも作れるものだ。実際に自分でも、シミュレーションをして、パラメーターを変えて感染状況の変化を確認してみてほしい。

追記:

追記2 (2020-03-27): 上の記述で、「実効再生産数」が適切に使われていなかったので、訂正し、より正確な表現にした。

オープンソース概念の無意識な風化への抵抗

このツイートが目に触れた。これは問題だ。

リプライにぶら下がっているリンクから、<利用ガイドライン>に飛ぶことができた。

本日より放送開始30周年となる2028年7月6日までの間において、以下の「利用ガイドライン」と「利用規約」の両方に同意いただくことを条件に、日本国内に居住されている個人の方に限り、アニメーション作品「serial experiments lain」(以下「本作品」といいます)の二次創作の利用を商用・非商用にかかわらず無償で許諾します。監修を受ける必要もありません。

また、個人の集合体となるファン・コミュニティによるOpen Source Projectであれば法人格を有しない限り、同様に許諾します。

www.nbcuni.co.jp

Open Source という言葉は、1998年に生まれた。パーソナル・コンピュータが大衆化し、人々の相互接続性が次第に高まっていく、そういう時代だ。奇しくも、あるいは必然か、serial experiments lainが発生した年でもある。(私はそれが存在することを知っているが、触れたことはない。)

Open Source は、概念だ。概念はとらえどころのない存在だが、言葉で定義されることで、社会全体に客観的に理解できる、確固としたものとなる。Open Sourceは、Open Source Initiative によって定義されていて、次のページで定義を見ることができる。

opensource.org

日本語で読みたい人は、次の八田真行訳を読んでもいい。

opensource.jp

第5条には、こういう定義がある。

  1. No Discrimination Against Persons or Groups The license must not discriminate against any person or group of persons.

  2. 個人やグループに対する差別の禁止 ライセンスは特定の個人やグループを差別してはなりません。

ライセンスに「法人格を有しない」という条件を課すことは、当然、差別にあたる。これは、私には(おそらく、他のオープンソースソフトウェア・コミュニティーの人間にとっても)明らかにOpen Sourceとは認められない。

オープンソースとは、個人の集合体という意味ではない。個人であろうと、法人であろうと、差別されず参加できる、そういう仕組みを実現するための言葉なのだ。

だいたい、「法人格を有しない」という条件があるのであれば、法人格を有するいちから株式会社の運営するバーチャル配信者グループ「にじさんじ」に所属する、月ノ美兎は、どうなるのだ。月ノ美兎は、個人なのか、法人なのか?

考えれば、法人という概念自体が、組織をバーチャルな人間とみた概念とも言えるだろう。とらえどころのない組織に対してインターフェースとして与えられた、法的にバーチャルな人間、それが法人だ。月ノ美兎自体は、いちからではなく、いちからの運営するにじさんじに所属するバーチャルライバーではあるし、月ノ美兎は、個人であるように見える。しかし、月ノ美兎の活動は © Ichikara Inc. の付く、いちからの知的財産でもあり、月ノ美兎の、月ノ美兎としての活動は、いちからの活動ということにもなるはずだ。

いったい、この状況で、月ノ美兎は岩倉玲音の凸を受けることができるだろうか? いや、そもそも、Open Source の考えは、そんなことで悩ませたりせず、自由な参加を促すためのものだったんじゃないのか?(これはただの私見だし、私は悩むのが好きだけれども)

Open Source 文化は、日本の同人文化やネット文化と似た面もあるが、本質的に異文化だ。おそらく、日本の同人文化が個人と法人の区別による黙認で二次創作を正当化してきた一方、Open Source 文化は明示的なライセンスによる許諾で二次創作を正当化してきたという文化的背景が、利用ガイドラインに無意識に反映されてしまっているのだろう。しかし、自分が Open Source だと言葉にするなら、Open Source 文化を正しく理解するとまでは言わずとも、少しはOpen Source 文化に触れてみてほしい。社会では色々な属性の人間やグループが、それぞれの意思と目的をもって活動しているが、それにも関わらず、Open Source文化では協同することができる。たとえ競合関係にある企業同士でさえ、その経済的原理から Open Source License のもとで協同することができる。(わたしはこういう、ドライで感情を伴わない状態から、原理に従って協力構造が生まれるという構図が、とても好きだ。)Open Source は、そうしてできあがった営みを指している。

lain は真に Open Source となることを願うだろうか。