帰責性

最近知った固有名という概念に何か釈然としない物を感じているので、固有名を検索したところ、こんな記事が出てきた。
固有名 - ised@glocom
読んでみると、固有名と帰責性なる概念とを結びつける、なかなか怪しげなことが書いてある。どういう意味だかよくわからないが、ここに書いてあることを下敷きに、考えたことを書いてみる。

書いてあるのは、こんなことだろうと思う。設計者は必要である。なぜならば、設計者が存在しないならば、帰責対象がいないことになってしまう。これはまずい。よって設計者は存在していなければならない。この論の根拠は、「帰責対象が必要だ」という倫理的要請である。帰責対象となる固有名が存在していれば、その固有名の「訂正する可能性」を足がかりにして、今とは違う別の可能世界を構想できる。

しかし、まあチューショー的で具体性を欠いていて、いったいどのように解釈するのが正しいのかよく分からん。というわけで、適当に、具体的な例に当てはめて解釈してみよう。

可能世界だとか設計だとか責任だとかそういう概念が出てくるが、そういう話を絡めて、しかも具体的である例があげられる。それはGitHubを使ったソフトウェア開発だ。そこで、可能世界はブランチであるし、設計だとか責任はまあそのままの意味で解釈できるとして、そこで本当に設計者は必要なのだと言えるのだろうか。何かあるいは今開発しているソフトウェアに問題があったとして、その問題に気づくのに、その設計者が存在している必要があるだろうか。そうとは思えない。

まず、バグを埋め込むだとか問題を作り出すという所作は、設計ではなくて設計不全とでも呼ぶべきものであり、設計不全を行った者は設計者ではなくて原因者と呼ぶべきだと思うので、その名前を使う。

GitHubでは、ソフトウェアにバグがあればissue trackerに問題が取り上げられる。取り上げられた問題は、誰が解決してもいいが、解決されたらそこでissueはcloseされる。この過程で、原因者=バグを作りこんだものが出てくる必要性はない。原因者が居なくても、バグは解決されうるし、バグが解決された世界=ブランチに到達できるのだ。

そもそも帰責性というのは、問題を作りこんだやつが問題を解決するべきだという倫理的価値観だと考えられるだろうが、GitHubにおける問題の解決では、もはや帰責性は成立していない。別の人が作りこんだ問題を、自分で解決しても別にいいのだ。

ここまで書いて公開したらツッコミが入った。

実際、ここまでの話は「そうではなかったかもしれない世界を想起する」ことに対応して、プログラムにある問題が解決するかしないかだけを考えていた。ここには、補償に関する話は含まれていない。補償まで考えればもちろん帰責性が要るだろう。

自分の考えでは固有名というのは同一性、等価性と関係していて、補償の問題では当然補償されるものの価値が問題となる。誰かが、あるいは、団体でもなんでもよいが、窓ガラスを割ったら、その人・団体が払った代償という形でしか、等価な補償はできない。固有名はそういう等価性を担保するものであると考えられる。