無限の環から脱け出すには
id:chnpkさんのダイアリーから話は始まる。
私は科学的区別を排除しようとしたのだが、【ものごとを盲信せずに常に疑う姿勢を科学的な振る舞いと言うなら、科学に対して盲信的な】疑似科学批判と言う疑似科学を批判することで、自らが科学的に振舞ってしまっていたようだ。
そして、意図せずして科学的に行われた私の疑似科学批判もまた疑似科学に陥る。これを脱するには自らが疑似科学である可能性に常に科学的に言及しなくてはならない。さらに言えばここで行われる科学的言及もまた疑似科学化する。
という考えに至った。
科学と疑似科学はこういう関係なんではないの。
脱魔術化の無限後退を体感してみました - よそ行きの妄想
(引用文中の【隅付括弧内の文】は補足のために追記されたもの)
なんで上の文章がこんな変な論理になるかというと、言ってしまうとなんでもないことだが、前提が破綻しているからだ。矛盾した前提からはどんな結論だって導きだせるから、まったく意味を持たない。
何を論じるにも、正しい前提がいる。もちろん前提の正しさを確かめるのは簡単ではないが、それでも正しいことを知りたい。
そのために、科学がある。
科学的手法は、人間の正直な感覚からすると奇妙に思えることもある。でもそれは、正しさを求める人々によって、長い間かけて築き上げられた結果だ。人間の考えることだから、間違っているかもしれない。それでも、そうだからこそ、知見が正しいかどうか確かめんとする。それが、科学的姿勢だろう。
人間の脳(あるいは宇宙でのあらゆる計算)には限りがあって、正しさを求めても、永遠に解答に辿り着けない問題がある。科学の無矛盾性もそうだ。純粋な論理でできている数学にはゲーデルの不完全性定理*1がある。でも、この定理は、矛盾していないときのことを言っているにすぎない。矛盾している論理があれば、人間はそれを見付だし、訂正することができるはずだ。これを怠ることが非科学的姿勢だと私は思う。
ゲーデルの不完全性定理を使ってみたので、id:aurelianoさんにも読んでほしいと思った。上の段落の論理に矛盾している点はあるだろうか?この宇宙は果たして矛盾しているのだろうか?
そうしてぼくは、パラドックス、あるいは矛盾は、この世界そのもの本質の一つであるとも考えるようになりました。それは、パラドックスあるいは矛盾が、価値というものの最上級にあるということもさることながら、前述したように、この世界のさまざまな局面に、金太郎飴のように何度となく立ち現れてくるからです。そうしてそれらが、まるでルビンの壷のように、この世界そのものが矛盾したパラドキシカルなものであることを証明しているように見えたからです。
そうした考えに則って、ぼくは「ゲーデルの不完全性定理は世界は矛盾していることを証明している」と言ったのです。それは、「技術的な上手さ」と「完成度」のパラドックスや、観察者効果、生と死の境界線、禅問答などと同じように、この世界が矛盾していることを、ルビンの壷のように表しているものの一つだと考えたからなのです。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081117/1226917158