ハンコの意味論
ナンセンスなハンコ
先日、大学で進路説明会なるものが催され、某就活支援サービスの担当者が、就活の心得のようなものを語っていた。そこで、履歴書だかエントリーシートだかの書き方の話になったのだが、「綺麗に書いて最後にハンコを押す段階で失敗して書きなおすことになるのは時間の無駄であるしバカらしいから、先にハンコを押してから書くよう」と指南した。
書類を書く前にハンコを押すとは、ナンセンスに思える。そういうナンセンスな対処を得意げに語ることを許容する社会はどこか鈍いのではないか、誰かこのことをよく考えなければならないのではないかと、そう感じた。ハンコを押すならば、その行為にどのような意味があるか、考えるべきではないのか?
実際のところ、行為に意味があることと、その意味を行為者が認識している(意図がある)ことは別だ。記号は、それを取り扱う者(あるいは取り扱う物)がその意味を認識せずとも、意味を持っている。これは、記号の意味は人間の解釈から生まれるという旧来の記号観に反するが、一元論的記号論における記号観には合致している。一元論的記号論における記号は、時空間上でループをなす情報媒体の経路であり、人間の持つ高度な認知機能・言語機能を前提としない。とにかく、ハンコに意味があることと、ハンコを使う人がその意味を理解していることは別のことなのだが、「学ぶもの」を自認するなら、記号の意味は知っておきたいものだ。
ハンコの機能
それでは、ハンコを押すという行為にはどのような意味があるのか。契印・割印・消印・捨印・止印とは|知っておいて損はない!【はんこ豆事典】[1]には、「契印」「割印」「消印」「捨印」「止印」といった用途が解説されている。[1]に見出しとして出てはいないが、他に「署名捺印」「記名押印」「訂正印」という用途もある。
このうち「契印」「止印」「訂正印」は、文書の改竄を防ぎ、文書が当人によるものであることを保証する機能を持っているものであり、署名捺印(または記名押印)に使用した印鑑と同じ印鑑を使う必要がある。「署名捺印」「記名押印」は、書類が当人の手によるものであることの証であると同時に、書類中で使われる「契印」「止印」「訂正印」を有意味にしている。
「割印」は「契印」と似ているが、少し異なる。「契約書の正本と副本、原本と写しなどの二枚の書類が元々一枚だった証として両方にまたがって押印」[1]するのであるが、これは署名捺印(または記名押印)に使用した印鑑と同じ印である必要はない。これは、文書が当人によるものであることを保証するのではなく、書類間の相関性を保証するものだからだ。
訂正印の印影は、ハンコを持つ当人にとっては任意に押印が可能だが、他人には押印不可能だ。ハンコと書類はともに物理的実体を持ち、複製が困難である。ハンコと文書は偽造が困難で、書類上の印影がハンコの印影と一致するならば、それは必ずその当人が押したという証拠になる性質があるからこそ、そのハンコには意味がある。また、割印に至っては、全く同様の割印を押すことは何人にも不可能であり、そのことが意味を担保している。「割印」が意味を持つのは、「割印が一致する文書はもう一方の文書のみ」という複製不可能性を持っているからに他ならない。
これらの例が示すように、記号の意味は、記号が複製不可能(偽造困難)であることによって担保されるのであり、個々の情報経路(ハンコの印影)の複製可能性も、記号が必ず持つ性質というわけではない。
押印廃止
履歴書にハンコを押すことには、どのような意味があるのか。履歴書に印鑑の押印って必要?はんこはシャチハタでもいい? |【エン転職】[2]では、採用担当者に与える印象の観点から、印鑑を押印する必要性について論じている。[2]によれば、今の履歴書はそもそも押印欄がない場合がほとんどだという。その背景として、1997年に閣議決定された「申請負担軽減対策」に基づき定められた押印見直しガイドライン[3]が挙げられている。[3]は認印の押印について見直しを求めたもので、方針として(自署が義務づけられていない)記名と(自署が義務づけられている)署名に分け、見直しを進めるとしている。そこには、記名に押印を求めている場合は「押印を求める必要性や実質的意義が乏しく、押印を廃止しても支障のないものは廃止し、記名のみでよいこととする」とあり、その後に具体的に該当する例が列挙してある。また、署名に押印を求める場合は、「原則として押印を廃止し、署名のみでよいこととする」とある。
しかし、「必要性」「実質的意義」の詳細については、ガイドライン中に記述はない。このガイドラインを読んだ人間が、押印にどのような意義があるか理解していると(あるいは、その押印になぜ意義などないと言えるのか理解していると)期待できるだろうか。押印の意義を理解していない人間にも、押印の意義が理解できるようなガイドラインであるべきではなかったのか。押印の意義を理解できて初めて、不適切な押印が無意味であるということも分かるのではないだろうか。
署名がある場合に原則として押印を廃止するのは、署名それ自体に、その書類が当人の手によるものであると示す意味があるからだろう。しかし、先ほど見たように、署名捺印は他の意味も持っているから一概に署名捺印の捺印を廃止してよいとは言えない。訂正印を押す場合には、やはり捺印も必要になるだろう。(歴史的には署名→花押→印鑑と変遷してきた[4]のであり、筆記具の変化が大きいとはいえ、印鑑が廃止され再び署名に戻るというのは、奇妙だ。)
一方、記名に押印する場合は、記名だけでは押印と同じ意味を持たないから、押印を廃止するには「必要性」「実質的意義」の有無が問題とされるのだろう。履歴書は、「押印を求める必要性や実質的意義が乏しく、押印を廃止しても支障のない」例に「該当すると思われる」として列挙されたものに含まれている。履歴書は「単に事実・状況を把握することのみを目的としているもの」とされており、これに押印することは実質的意義などないと判断している。事実の確認をするだけだから、履歴書などは改竄される可能性が低いし、ハンコによる確認など必要ないということだろうか。事実の確認というのであれば、ハンコが押してあることが、その確認を意味あるものにするのではないだろうか?
しかし、よく考えると、そもそも今は認印の押印について話をしている。認印は印鑑登録されていないのだから、その認印が本人のものであるか確認する手段がないわけで、その時点で本人確認というハンコの意味は失われている。そのため、たとえハンコが押してあっても書類の正統性・完全性の保証にはならないし、改竄は防げない。
おわりに
ハンコには、書類の正統性・完全性の証明、書類の改竄の防止という機能が達成されるという、重要な意味があった。その意味を担保する手続きは煩雑になるだろうが、真に価値がある書類だからこそ、偽造されないように苦労し、工夫を施してきたわけだ。ハンコを廃止していいのなら、その書類は偽造されようが大した問題のない類の書類であり、その程度の価値の低い書類を人は書かされていたことになる。押印が廃止できるなら、書類自体廃止できるかもしれない。
結局のところ、「押印見直しガイドライン」というのは「実質的意義」などと言いながら、本当に押印の意味を議論することはなく、ただなんとなく無駄らしいという感覚で廃止しようというものだったのではないか。押印の意味を考えないから、「押印の廃止が、申請・届出の電子化・ペーパーレス化に資する点にも留意するものとする」などという意味の通らないことを言うのではないだろうか。電子化されようが、記号に求められる機能には変わりがない。電子化されてもなお、ハンコに相当する電子署名というものがある。電子署名もまた、無意味だから廃止とされるのだろうか。いや、既に形骸化し、意味が見失われた規則によって運用されている例はたくさんあるだろう。
この社会は、このように、不完全で、意味を持つかどうかよく分からない記号で溢れている。見方によって、それは形骸化したようにも、なお有意義なようにも見える。[1]は、履歴書に押印欄がある場合や、採用担当者から求められた場合には押印することとしている。印章ひとつで印象が変わる。書類の正統性を示す意味を失ってなお、就職に繋がるという意味があるのであれば、人はハンコを押すのだろう。ハンコは、誠実さを暗示する。ひとつひとつの記号は形骸化し、ほとんど意味がなくなろうとも、大量の誠実さの証があれば、その人間は誠実だと判断される。それもまた、記号の持つ力なのだ。
付録: 一元論的記号論の意義
ハンコの意味の分析を、旧来の記号論で行いうるだろうか、確認してみたい。(一元論的記号論は、未だアイディア段階だ。)
ここまで「意味がある」と表現してきたことは、むしろプラグマティクスで言う「効力」に近いのではないかと思うだろう。表現は対象と結びついている時に「効力」を持っていると考えられる。しかし、ハンコの意味というものは、表現と対象に分けることで理解できるものではない。割印は、片方の割印ともう片方の割印の対応性によって意味があるのであり、その関係は相対的である。ハンコと書類の関係も同じで、両方が物理的実体である。ハンコはまた、当人という存在に所有され、他人が物理的に手にすることはないという関係で結びついている。そして、割印が突き合わされ、ハンコの印影と書類の印影が照合され、そのハンコを当人が持っていることが知られていることで、記号の意味は確認される。
今の例は、記号の意味の確認がすべて人間の認識の中で起こっているのだけれども、記号を機械的に処理することもできるわけだから、人間が確認者である必要もない。人間が処理しようと機械が処理しようと、記号系全体の時空間におけるループの構造が同様であれば、つまり記号系が同じように振る舞えば、記号系全体は同じ意味を持つ。
一元論的記号論における「意味」の用法は、日常語としての「意味」によく合致し、説明できていると思う。これを、旧来の「シニフィアン」「シニフィエ」のような概念を使って分析するのは困難だ。(ハンコの意匠というシニフィアンに対応するシニフィエを探ったところで、ハンコの意味は出てこないだろう。)一方、「記号」の方は日常語としての用法からは離れている。ここで「記号」といった時、これは、旧来の記号の構成要素に相当する部分などを全部含めた、ループ状の情報経路全体を指している。一元論的記号論では「代表項」「心的対象」「外的対象」「シニフィアン」「シニフィエ」などといった概念は、「記号」(あるいは記号の束)の一部を恣意的に切り取ったものとして表現できる。
人間は、記号系自体を認識し、記号を見出すことができる。つまり、脳内に記号系のモデルを作り上げ、各部分間に相関性があると認識できる。「意味するもの」と「意味されるもの」という区別は、各部分自体の重要度によって決定されるのだろう。環状構造の絡みあった記号系の一部分だけを切り出して「意味するもの」と「意味されるもの」に分ける行為は恣意的な解釈で、これが旧来の意味での「記号」だと言える。書類の一部である印影を「意味するもの」とすると、「意味されるもの」は、印影を貫く記号*1の残りのどの部分のことでもよい。記号系の範囲を書類のワークフローに限定するか、社会全体とするかで、「意味されるもの」がどの範囲を指すかが変わってくる。
リファレンス
*1:印影を情報経路と見なしたとき、その経路を通る複数の記号すべて