メッセージとコンテキスト
安倍総理の動画はただくつろいでいるだけで、歌っても踊ってもいない。コンテンツの趣旨、コンテキストを無視しているように見えるし、それが憤りに繋がっている。
しかし、いったいそんなコンテキストが本当にあったのだろうか。
星野源さんのインスタグラムには、バナナマンと大泉洋さんの動画も投稿されている。
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これらの動画は、何を伝えているだろうか。参加の形態は、必ずしも楽器の伴奏やコーラスやダンスに限らない、ということではないのか。俳優やお笑い芸人であり、音楽として関わることができなくとも、連帯してほしいということではないのか。これらの動画はニュースショーでも取り上げられていたし、これを見て、音楽でなくても大丈夫、というふうに思った人がいてもおかしくはない。
もちろん、個性的な大泉さんや、お笑い芸人のバナナマンだから、コンテキストを逸脱することが許されるのかもしれないし、星野源自身が投稿した動画であるから、彼らの動画が炎上するはずもない。一方で、一国の総理大臣が(追記:現状あまり職務を全うしていないと見なされている状況で)、彼らのように歌でも踊りでもない逸脱的メッセージを発することは、やはり問題があったのだとは思う。端的に言えば、安倍総理の動画はスベっていて、ムーブメントに水を差す結果になってしまった。
インターネットの時代、私たちは皆が皆異なるものを見ていて、コンテキストはほぼ共有されていない。この世界では、コンテキストを置き去りにして、メッセージだけが転送されてゆく。メッセージは原理的にコンテキストから乖離していく。この時代、正気でコミュニケーションをとろうとするのであれば、異文化への原理的無理解を理解し、ディスリスペクトという現象をリスペクトするべきだ。不快感に正直でありつつ、自分と異なる存在を理性的に認めるべきだ。そうでなければ、排外主義に堕してしまう。文化摩擦は、絶望というよりもチャンスであり、そういう時こそ感性を研ぎ澄まし、失われたコンテキストを集め、現象を見極めようとするべきだ。創造的な、あるいは破壊的な他者へのリスペクトが行われなければ、私たちは永遠にリスペクトされないだろう。