ナンセンスな「電子署名」と、「失われた魔法」の話

今日の帰り道に、携帯電話会社の店舗に寄って、支払い方法をクレジットカード払いに変更してきた。身分証明証とクレジットカードを提示し、支払い方法を変更するんだけど、最後にタブレットを差し出され、指で画面への「署名」を求められた。これは変だ。その場で理由も特に聞かないまま、とりあえず日付と名前を書いて「署名」したんだけど、もったいないことをした。もし登大遊だったら、きっとツッコミを入れている。

以前、「ハンコは、ハンコが本人と書類を紐付けることと、複製(偽造)が不可能であることによって意味を持つ」というハンコの意味論の話を書いた。同じ話が、そのまま署名にもなりたつ。

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タブレット画面に指で書く「署名」には、どんな意味があるんだろう。家に帰ってから、発行された「【情報変更】申込内容確認書」をよく確認してみると、「(契約者様 ご署名欄)上記内容につきまして、確認の上契約致しました。」と書いてあって、その下にタブレットに書いた「署名」が一緒に印刷されていた。でも、タブレット画面に書く時には「上記内容」はまだ印刷もされていないんだし、「署名」が確認になっているわけがない。

タブレットに契約内容が表示されていたというわけでもない。まあ、たとえ画面に契約内容が表示されていたとしても、画面に表示されている内容とその後に印刷されている内容が同じという保証はないわけで、確認にならない。(タブレットの裏で動いているプログラムまで確認できるなら話は別だけど。)

まあ、世の中には既に「シュリンクラップ契約」とか「クリックオン契約」だとか、あるいはコンビニで画面にタッチさせて行う「本人確認」みたいな、いい加減な方法で溢れているんだけど、タブレットによる「電子署名」もその系譜のひとつなんだろう。

この「電子署名」は、ナンセンスだ。そういうナンセンスなはずの契約が、それでも機能しているのは、直接人間と人間が対面し、常識的なコミュニケーションを行っている中で行われている契約だからだ。タブレットに署名をする行為から実質的な意味が欠落していても、店員も客も嘘をつかず誠実で常識的な人間どうしのコミュニケーションが行われている。その場に関係した人間が、互いに互いを信用し、ハンコや署名などなくとも、人間自体への信頼によって、契約が成立している。そう、人間という情報メディアが信頼できる存在であるのなら、他のメディアで信用を担保する必要もない。意味もない「署名」も、人間がそれに意味のあることを信じていて、常識的なコミュニケーションに必要だという理由で、形骸化したまま使われ続ける。これは、「失われた魔法」と言うべきだろう。

考えてみると、この国では人間に対して求められる信頼性が高すぎる。日本では、人間自身が工業製品と同列に高品質高信頼が求められる存在であり、道徳的な人間と高度な職人芸が礼賛され、あらゆる社会の構成要素が理想を実現されているからこそ、優れた社会なのであると信じられている。これは、馬鹿げている。人間の品質に重きを置きすぎた結果として現実に起こっているのは、人間以外のシステムの脆弱化と、「壊れた人間」の疎外だ。

人間以外のシステムが壊れていても、全体の機能は損なわれないから放置される。そして、人間自体が壊れても、それを補完する他のシステムが壊れているのだから、壊れた人間をシステムから排除し、健全な人間に置換するしかない。

魔法の失われた、形骸化したシステムが社会に蔓延している。壊れたシステムの上で、人間がメディアとなって、かろうじて社会は成り立っている。壊れた人間は疎外される。システムの不全性を指摘するには、人間の不全性を大前提とするが、この社会では壊れた人間は排除されるのが大前提だ。私はシステムの不全性を知っているが、社会常識が、壊れた人間を導入する私の理性を排除する!